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色々思ったやつを書くところにする予定

徒然なるままに(以下略)なる予定ですが、多分出来ません。

裏世界ピクニックという本

日記

 

 皆さんは都市伝説と聞いて何を思い出すだろうか、てけてけ、花子さん、ムラサキカガミ、エトセトラエトセトラ。これらはわざと挙げたものだが、もはやこれらは時代遅れと言わねばならない。今の世を席巻する都市伝説といえばくねくねだろう、誰しも一回は読んだことがあるはずであるが、あえて説明するならば見たら負けの類の怪異である。他にも目を引く名前を挙げるならターボババァだろうか。まぁ色々ある

 さて、そんな都市伝説共を題材にしたものがこの裏世界ピクニック~ふたりの怪異探検ファイル~という本である。

https://www.amazon.co.jp/dp/4150312648/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_bB0TybJ77Q7RS 

 

 感がいいというか物好きな人なら某ssを思い出していることだろう、某麻雀アニメのモブ男がWな感じの奴。アレを読めば都市伝説に多少詳しくなれるだろうし、しかもこのssはなかなか面白いので探してみてはいかが。

 話を戻すがこの本はお察しの通りに都市伝説とかち合う話である。しかし僕がこの本を買った理由はそうではなく、表紙の絵を見てもらえば分かる通り女の子が鉄砲を持っている。それだけ。SNSに一瞬上がっていたので即通販でお買い物である。すこしネタバレになるが、僕はあまりホラーを読まないからどの程度かは分からないがこの本はSFホラーでいいと思う。女の子がバンバン鉄砲を撃って都市伝説を退治していく類の話(Tさんみたいな軽快な感じ)かと思っていたかが、さすがハヤカワそうは問屋が卸さない。読んでいく内にううんと唸ってしまう。怖いからじゃない

 

 

 

 

 ここからは完全なネタバレである。

 さてハヤカワと言った以上この本はSFである、僕はSF初心者ではあるが前に読んだ雪風が結構役に立っているのか色々邪推してしまう。

 まずくねくねへの再チャレンジのシーン、アレはまさに妖精の目がいるという話なのだと思う。というか全体的にそうなのではなかろうか。少なくとも、相手方は我々の常識では捉えられず、それなりに相手方を理解する必要があるのだ。

 この巻では彼らが何者で何が目的なのかと言うのがわからない、少なくとも都市伝説は相手方を恐怖した(させられた)人間が勝手に想像したもので、相手方もそれを利用しないと認識を拡大してもらえないのだろうということ、が相手方について分かることである。本体はあまりにも理解不能と書いてあるし

 対話とはいかなくとも意志の一定の疎通、理解というか、少なくとも我々は恐怖でしか相手方とコンタクトを取れないらしい(何人も消えたりしているが)、だから今後鳥子、空魚の手と目は恐怖以外のコンタクト手段になっていくのだろうか……

 

結構甘く読み始めたので度肝を抜かれているのは間違いない。今少し考察を書いてみた通り、なかなか考えがまとまらない、困ったものである。

 

 

恐怖しつくした先に何があるのか、2巻に期待するばかりだ。

現代的耳かき

日記

 耳かき音声というものがある、耳かきボイスともいう。界隈の者ならばピンと来るだろう、あのサークルのが良いだとか、イヤホンとヘッドホンのどちらで聞くべきかなどと話題は尽きないだろう。しかし何のことやらとチンプンカンプンな人も多いだろう、まさに知る人ぞ知るといったところである。知らない人に簡単に説明するならば、耳のVRのようなものである。

 それを前提として、これの歴史であるが。日本最古の耳かき音声は恐らくみみもとラブプラスというラブプラスのCDであると思われる、どんなものかは各自で調べてほしい。添い寝音声もこれを契機にしたものであろう。そして萌音声によるなんらかの疑似体験はサラウンド的編集技術の向上や新しいタイプのマイクの登場などにより、音声作品として多様にどんどんその地位を上げている。というのが現状までの話である。

 そして、その進化の中で声よりも音に重点を置く、というより音のみの音声作品も増えているのは必然であろう。なぜなら既に耳かき音声はともすれば実際の耳かきよりも気持ちいいからである。

 気持ちいい音ということに関しては日本特有の文化という訳にはいかない、海外にはAutonomous Sensory Meridian Response という言葉がある。大抵はこれを縮めてASMRと表記している。2012年ぐらいには既に存在していた概念である。このASMRというのは、音を聞き心地よく感じるという意味である。時雨を聴くのはなにも日本人だけではなかった訳である。

 そしてこれらを調べてる内に思ったのだが、心地良い音、気持ちの良い音、ひいては囁き声にうっとりとするのは万国共通なのではないだろうかということである。この世界には色々な文化がある、文化と文化は相容れないことが多い。しかしASMRというのは既存の文化に邪魔されずに世界をつなげる架け橋になるのではないだろうか。囁き音声は受け付けない人も多いだろう、しかしそれはASMR内の話であってASMR自体を否定することは出来ない。私はASMRに既存の文化をすべて包める可能性を垣間見たのである。

ネトウヨについて

日記

 諸君等に此の「ネトウヨ」と云ふ言葉を知らぬ者はゐないだらう。寧ろ、ネトウヨと呼ばれてゐる者、我こそはネトウヨと豪語する者と、心當たりは尽きぬものである。

 こふは言うものの、はつきりとネトウヨを定義してゐるサイトは少ない。故に此処に駄文を書き連ねることとする。

 

 先ず、ネトウヨとは蔑称である、そして蔑称されるのに相応しい精神をしてゐる。これは大前提であらう。ネツト上の右翼と云ふのは言うまでもない。だから、ネトウヨを自称するのは「俺はヤンキーなんだぜ」と云ふ具合である、本気で使ふ者はゐない。また、対義語になるのは「パヨク」「ブサヨ」となる。(ネツト上のと云ふ意義は薄れるが)

 次に、ネトウヨとはどの様な者等であるかである。これは「厨二病」と云ふ言葉がそつくり當て嵌まると言えやう。これは別に厨二病ネトウヨと言いたひ訳ではない。また此処では厨二病の事は書かない。

 詰まる所、彼等は自己のアイデンテテェを渇望する余り愛国心に寂滅することのない火を灯すのである。此の、世界に誇るべき国の国民であると云うこと、またあったと云う隠された事實を開帳する行程が、自己のアイデンテテェを溢れむばかりに満たしてゐくのである。厨二病はこれに耐へられない。

 斯くしてネトウヨの卵は出来上がる。然し其処までなら蔑称が付く程のことではない、問題は此処からである。

 ネトウヨが蔑称たる所以は愛国心の在り方である。此の愛国心は自己のアイデンテテェを護る為のものであることが多い。だから、このアイデンテテェを護らむが為に、ありもしない事實をあると言つたり、事實を認めなかつたりするのである。 その醜さは蔑称を付けられるには十分な条件であらう。

 愛国心とは文字に通りに国を想ふ心である。七世報国などと重苦しいものである必要はないし、右翼でも左翼も良い。然しネトウヨは右翼こそ真なる愛国者である、左翼は売国奴に違ひない。と思考が停滞してゐる。思考の停滞は愛国者として重大な欠陥でる、気付ければ直ちに治すべきであらう。然しその眞實すら認めることのない頑固さが被蔑称者たる所以である。覚醒せよ。

 

 だいたいこんなところである。要はネトウヨと云うのは面倒臭さい頑固者のことである。とは言ふものの私自身この精神から脱しきれてはゐない。然し、諸君等も右翼左翼に限らずこの精神に心當たりが有るのではなからうか、偶には胸に手を當ててみては如何。

高田保著作集を買いました

日記

 昨日の朝、アマゾンにて購入しました本が今日の朝に届きました。別にお急ぎ便にを使ったわけではありませんがこんなに早く来ると驚きますね。

これがその本です、まだ読んでいませんがもう包は剥がして少しペラペラとしました。

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 なんと初版で、しかも売上カードがまだ残っていました。おそらくこの本は消費者には初めて僕手に収まったようです。前に読んだ人がいるとしてもよっぽど丁寧に扱ったんでしょうね、売ることを前提にしていたのかもしれません。

 そもそも皆さんは高田保という人をご存知でしょうか? 名前だけ知っているという地域の人もいるかもしれません。それは何故かと言うと、この人の名前を冠した公園が湘南の奥地に存在するのです。名前はそのまま高田保公園、お墓もそこにあります。そして、そこにあるであろう立て札にはこう書いてあります。海の色は日ざしで変わる

 どうですかこの文言、初めて目にしたときには笑いそうになりました、フフっっていうオタク笑いです。ともかく高田保という人はこういう人だということです。この人は劇作家、また戦後は随筆家として一部界隈では有名だったそうです。あまり全国的有名人と言う訳ではありませんでした。そうであればその知名度は徳川夢声並だったはずです。どちらにせよ今の子にはわかりませんね、僕も知りませんでした、古書店に行ってみて初めて買った古本がこの人だったと言うだけです。

 僕が初めて買った高田保の本が吾輩も猫である、です。これは猫、という題で新大阪という雑誌? に掲載されたものです。作者が逝去し、これを刊行せんと言うときに絵師の人らが勝手にそういう題にしてしまったそうです、本にはそう書いてありました。この吾輩も猫であると言うのは漱石のように平常の鬱憤を猫として晴らすのではなく、猫として終戦間もない日本社会を観察するというものです。感想はとくに書きません、しかし読んでいてフムンとなったということだけ。

 吾輩も猫であるは後半がエッセイ集になっていてそれがまた僕を惹きつけました。そのせいでその古書店に数度行き、幾つかのエッセイ集を買いました。高田保はのエッセイはどこか冷めていて、しかし情があり、そして何より例えの引き出しが膨大です。すぐに、○○には、○○といへば、こういふことがある、あった、と言って故事やらを出してきます、しかもそれは東洋に限らない。含蓄に富んだ人と言うのは当にこういう人だと言う気分になります。またその過程で僕はこの人が劇作家と知りました。そして、どんな話を書いていたかを知るには高田保著作集を買うしかないとなったわけです。

 それが今回これを買うに至った経緯ですが、感想が出るようなことがあればまた何か書きます。

 

ちなみに今までの文章は高田保っぽさが出るように書いたのですが、出ていたでしょうか……

アルセウスが見つかったそうな、

日記

www.youtube.com

 

*色んな人が感慨深さを文にしていたので僕も書きました、故にぱくり臭くなっています。

 

 十年も前のことである、いやもう十年も経ったのである。当時もポケモンザ・ムービー十周年を謳っていた気がする。ポケモンダイヤモンド・パールはds初ポケモンであった、正確には違うがもうアレのことは誰も覚えていないだろう。諸君は最初のポケモンの内どのポケモンを選んだのだろうか、私はポッチャマである、しかし途中に友達と交換したドククラゲを主力としたので育てなくなってしまった。なみのりとどくづきが良かった。

 クリアはあっという間だった、周りもそうであった、ならばレアポケモン探しが流行になるのは必然である。当時周りではおもしろフラッシュが流行っていて、インターネットを使える者も増えていた。そこで誰かしらが探し当てた情報、youtubeか名もなきブログか、そこにあったシェイミダークライアルセウスの情報は少年少女らの好奇心に火をつけた。好奇心は藁である、束になって燃えだせば誰にも火は消せない。

 誰も彼もがなぞのばしょに挑んだ。なぞのばしょについて理解を示せるような者は誰一人としていなかった、皆好奇心の波に乗り得体の知れない場所に挑んでいった。ネットの情報に従い指定歩数に近づける、最初の間が見えなくなって、ひたすら闇の中を進んでいき、手に汗が滲み、bgmの変遷が気味の悪さを増長させる。指定座標に到着し、あとはたんけんセットを使うのみ、もう後には退けない、セーブが始まり主人公が回転し始める、地下に着き、後は地上に戻るだけ。そこは待ち望んだ花畑か、まだ見ぬ無人島か、テンガン山を見下ろすことになるか、はたまたガセに踊らされ闇のがんじがらめに身を落とすか。

 何人もの友人がガセを信じ主人公を帰らぬ人としてしまった、私もそうなった。しかし私はあの花畑に着いた、事実である。ただレポートをしていなかったから続けて挑戦したダークライの手順に騙されてあえなくニンテンドーストアのご厄介となった、あわててボックスを確認すると、モンスターボールで捕まえたはずのシェイミはいなかった。

 しばらくしてまた誰かがyoutubeから動画を見つけてきた、それはシェイミダークライアルセウスへの正当なる挑戦の動画である、何かしらをゲームに施しそれを可能にしたのだろう。シェイミダークライはちらほら持っているものがいた。しかしアルセウスは違う、皆が持っているのはゲームフリークなどで草むらから現れた野生のアルセウスである。てんかいのふえを望み、配布をひたすら待っているとプラチナが発売され、例の映画が放映された。

 月日は流れ、少年少女らの夢は数多くの思い出の一つとなり忘却の彼方に沈んでいた。私はオタクになってポケモンへの興味も失せ、スイレンの脱衣に己の内にあるものを必死に押さえ込んでいるとこのような情報がツイッターのタイムラインに舞い込んできた。もうカセットは何処かへ行ってしまった、今更挑戦する手立てはない、思い出に浸りながら入手報告のツイートを眺めるのみである。

 

 

ps. ニコニコ大百科を見る限り、2chの住人のゲスさがてんかいのふえの配布無しとした原因だと思うのだが如何。

理想的な態度

日記

 アイドルだとかゲーム運営だとか公式ツイッターアカウントだとかには、身近にいるような錯覚を起こしてしまったり、逆に遠くにいることを自覚させられたりする、とにかく今日には多種多様な「公式」がいる。これについての話である。

 「公式」は消費者らにひたすらに有料無料の様々な何かしらを提供している。そして消費者らは「公式」に何を抱くのだろうか、親近感か、敬意かまたは畏怖の念か(どうでもいいけどgoogleIMEは○○かのかを化に変換するのやめて)まあ様々である。「公式」は基本生産者なら誰でもなれる、だから大手同人家とかも「公式」であると思う。ちょっと前まで「公式」は天啓のごとく消費者らに情報を提示してきた、それは雑誌、cm、HPと色々あったが基本は一方的なものであった。しかし今は違う、ツイッターが登場しこの辺の様相は変わりつつある。ツイッターではその「公式」と話せる可能性が出てきたからである。

 「公式」と言葉をかわすなど昔ではあり得ない、そんなものは奇跡かなにかであった、しかし今はその可能性が格段に上がっている。仰ぎ見るだけだった「公式」という存在はかなり身近になっている。僕はこれをとても危ういと思っている。良いこと尽くめなんだろうがなんというか危うい。

 「公式」には威厳が必要である、それは僕が「公式」に常々求めてしまっていることである。少なくとも僕はありのままの「公式」を求めている、色々なニーズに合わせて様相を替えたりするのは結構であるが、それでも芯が残っているとありがたい、漠然としていて大いに勝手であるが。そういうことと消費者らに絆されてしまうことはちょっと違うんじゃないだろうか、だらだらと消費者らと馴れ合いを始めてしまったら終わりである(この考えには多少の嫉妬が混じっていると確信している)。現に言葉をかわさなくても変に消費者に近づいた感じを出して、逆に冷めさしてしまう「公式」も度々見る。

 この辺の線引は難しいものである、そう思うのは僕がコミュ障だからかも知れないが。だから安易にツイッターアカウントを作って馴れ合おうとする「公式」が、自分の好きな「公式」から現れるのではないかと、僕はいつも内心冷や汗をかいている。そして消費者らと話しつつも常に凛としていて自分を見失わない、同じ目線のようで見下ろしている、そんないじらしさを僕は「公式」に求めてしまうのである。

 

 

 

 大変読み辛いでしょうが、読んでいただけたら光栄です。

とりあえず登録

とりあえず登録してみました。

書き方などはまだ勉強以前の問題にいますので、暫く勉強してから出直してきます。